「我-汝の対話」

 

 ゲシュタルトセラピーにおけるファシリテーターとワークをする人の関係は、「我-汝の関係」であることが求められます。「我-汝の対話」は、イスラエルの宗教哲学者、マルティン・ブーバー(1878~1965)が提唱した概念です。その意味をひとことで表せば、

 

 

温かく親密な、目的や対象をなんら持たない「関係」という体験

 

といえるでしょう。つまりファシリテーターはワークの時に、「~のために」という目的や「クライエント」という対象を持たないということです。ファシリテーターは、ワークをする人の悩みや問題を解消「してあげる」とか未完の事柄を完了「してあげる」という目的や、ワークをする対象が〝クライエント〟であるという意識を持たずに、ただ関係という体験の中にいるのです。

 これは、同時に立場や役割を持たない関係であるともいえます。「ファシリテーター」「クライエント」なども役割呼称です。便宜上このような言葉を使うものの、実際にはその呼称で示される関係ではなく(P. バウムガードナーは著書の中で「友人」と呼ぶのが最もふさわしいと書いています)、一個人である私と一個人であるあなたの間の関係を体験するのです。ブーバーは、目的や対象を持つ関係を「我-それの関係」と呼んでいますが、役割意識を持つ時にはこの関係を結んでいるといえるでしょう。

 具体的にいうと、ファシリテーターはワークをする人から聞こえてくる声や言葉、見えてくる表情や動きに、目的や意図を持たずに自分の中から自然に湧いてくる直感・感情・感覚を正直に表現するということです。意図をもたない反応ですから「~させる」「~してあげる」という気もちは持ちません。これらの気もちはその背景に「~のために」という目的や目標を含みます。目的や目標は「今・ここ」で起きていることではなく未来を想定するものです。つまり、意図を持たないということは、ファシリテーターが「今・ここ」にいつづけるということでもあるのです。

 ファシリテーターは、ワークという関係の中で様々に直感的な提案をします。この提案は、ワークをする人の「今・ここ」で何が起きているかを、ファシリテーター自身が〝知りたい〟〝確かめたい〟という強い関心の表れです。また、ファシリテーターはワークの中で、自分が気づいたことや感じたことをワークをする人に伝えます。これも、ファシリテーター自身の中に起きていることを正直に表現しているということです。そして、そのような関係によって、ワークをする人が『結果として』自分の変化を体験するのです。

ゲシュタルトセラピー(関係対話アプローチ)における「我-汝の法則」

Lynne Jacobs Ph.D. のレクチャーより

(2015/7/16 東銀座TKKセミナールーム)

 

① プレゼンス(存在感、居かた)

  • ありのままの自分として存在すること。見られたくない自分の部分でも、あらわになるにまかせる姿勢。〝ファシリテーターらしく〟などの〝~らしさ〟の部分で関わる姿勢ではない。

  • 自分の五官の感覚に気づいていること。クライエントとの関係の中にいて自分のからだが感じていることをありのままに感じ、全身でクライエントと関わること。

 

② インクルージョン(包摂)

  • 自分と相手の間の境界線をしっかりと持ちながら、自分を相手の中に投入し、自分があたかも相手であるかのごとく相手の感情・感覚を味わう。同時に、相手が感じているであろうことを感じた自分が、それにどう影響されているかを全身で感じ、からだごと共鳴し、必要とあれば自分が何を感じているかを表現できる自分でいること。(共感とインクルージョンは異なる。共感は、自分があたかも相手であるかのように相手の気持ちを感じ取るところまで。)

  • 自分の両手を相手の方に差し出して、相手の魂を自分の手のひらに乗せ、それを大切に感じ取り共鳴すること、あるいは相手の靴をはいて自分の五官すべてをその中でふるわせる全身的な体験。

  • セラピストがインクルージョンを体験しているとき、クライエントが〝インクルージョンされている〟実感を持つ必要はない。

 

③ 対話へのコミットメント

  • 対話は、コンタクトそのもの。それは、相手と自分との関係の中に自然とわき起こる気もちをやりとりすること。その時、私とあなたの間に「~のために」という目的がはさまれば、それは「我-それ」の関係になる。

  • 普段の生活は、ほとんど「我-それ」関係の対話。それは、人が生活を営む上で必要かつ大切な対話のかたち。「我-汝」関係は、めったに体験できるものでない。

  • セラピストとクライエントの関係が、〝癒すために〟とか〝モヤモヤを晴らすために〟であるなら、それは「我-それ」の関係。

 

 

翻訳・文責 岡田 法悦