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「変容の逆説的な理論」とは何か

行動変容は「変容の逆説的な理論」が基本

 

 本質的な行動変容がどんな時に起きるのか、考えてみましょう。

 ゲシュタルトセラピーで最も基本的な考え方の一つに「変容の逆説的な理論」があります。これは、アーノルド・バイサー(Arnold R. Beisser, 1925-1991)というセラピストによって1970年に提唱されました。その内容の核心は、

 

  本質的な変容は、人が自分でないものになろうとする時ではなく、ありのままの自分を体験する時に起きる。

  セラピストが「変えてあげる人」になるとしたら本末転倒である

 

というものです。どういう意味か、例をあげて考えてみましょう。

ある日、あなたがちょっとしたミスをしたことで、上司のAさんから大きな声で怒鳴られました。それからというもの、Aさんの顔を見るたびにその怖さがよみがえってしまい、顔を合わせて話す時には胸がドキドキし、身体がこわばり、頭の中は真っ白になり、言葉がまったく出なくなってしまいます。これでは仕事になりません。

他の人は口をそろえて「Aさんは心のやさしい人だ」と言います。そこで、あなたは「あの人は、本当はやさしい人なのだから怖がる必要はない。あのミスは、私が悪いんだからしかたない」と自分に言い聞かせて落ち着こうとします。(=自分でないものになろうとする。)しかし、そうすればするほどAさんと向き合う時の胸の鼓動は高まり、必要なことも言えない状態が続きます。平常心でAさんと話せるようになるためにどうしたらよいでしょう。それには、Aさんと向き合った時にあなたの心の中に湧いてくる〝怖さ〟に目をそむけるのではなく、その感情に気づき、感じ、体験しつくすこと(=ありのままの自分を体験する)が必要なのです。

このように、「今・ここ」の自分を不自由にしている〝心に刺さったトゲ〟のような体験を「未完了な出来事」と呼びます。あなたが引きずっている〝怖さ〟という感情が〝ふた(フィルター)〟になって、目の前にいるAさんと直接接触できない状態をつくり続けるのです。あなたの気もちをふさいでいるふたは、自分の中にある感情を体験しつくすことによって無くせます。もともと、ゲシュタルトのワークでは「今・ここ」の自分の中で起きていること、つまりありのままの自分を丸ごと体験することの連続です。それを通じて、未完了な感情を完了させ、「今・ここ」で起きていることとの直接の関わりに、本来のエネルギーを注げるようになるのです。

下に掲載した「変容の逆説的な理論」は、フレデリック・パールズの論文を除き、ゲシュタルト・セラピーの文献において簡単にではありますが最も頻繁に引用されています。この論文は1970年に書かれ、ファーガンとシェパードによって「Gestalt Therapy Now (Harper Colophon Book)」に初めて紹介されました。Gestalt Journal Pressのご厚意により、翻訳・転載させて頂いています。(複写・転載禁止)

Beisser

変容の逆説的な理論

 

医学博士 Arnold Beisser

宮田はる子・村上尚子訳

岡田法悦監訳

 

フレデリック・パールズは、彼の専門家としての人生の大半を通して、半世紀近く、精神医学や心理学の主流派と衝突していた。彼は妥協のない独自の道を歩んだために、保守的な立場の人々としばしば対立していたのである。しかしながらここ数年、パールズと彼のゲシュタルト・セラピーは、メンタルヘルスの理論や専門家による臨床の広い領域において徐々に受け入れられてきている。こうした情勢の変化が起きたのは、パールズが自分の立場を変えたからではない。彼の理論も変化を遂げてはいたが、この分野における流れと概念が彼と彼の理論に歩み寄ってきたからである。

 

パールズ自身が抱えていた既存の体制との対立の中に、彼の変容の理論の萌芽が含まれている。彼はこの変容の理論を明確には描写しなかったが、それは彼の多くの仕事の基礎を成し、ゲシュタルト・テクニックの実践の中に潜在的に示されている。本文でその理由は明らかになるが、私は彼の理論を「変容の逆説的な理論」と呼ぶことにする。簡単に述べると、「人は、自分でない者になろうとする時ではなく、ありのままの自分になる時に変容が起こる」ということである。つまり、変容は自分あるいは他者がその人を変えようとする強制的な試みによって起こるのではなく、ありのままの自分でいることに時間と努力を費やす時 - 自分自身の現在のありように完全にひたる時に変容は起きるのである。変容を起こさせる役割的行為を拒否することによって、意義のある整然とした変容が可能になるのである。

 

ゲシュタルト・セラピストは、「変容させる人」の役割を否定する。クライエントが「ここにいること」と「自分自身であること」を奨励し、あるいは強く要求する方法をとるためである。〝努力〟、強制、説得、あるいは洞察や解釈のような方法によって変容が起こるとは考えない。むしろ、変容は、クライエントがこうありたいと思う自分を少なくともその場だけでも捨て去り、ありのままの自分でいようとする時に起こり得ると考える。その前提は、人が動きを起こすための堅固な足場を得るには一カ所に立ち止まらなければならないこと、このような足場なしには動くことが困難、あるいは不可能であることである。

 

変容を求めてセラピーを訪れるクライエントは、心の内部で少なくとも2つの相対する気持ちが葛藤状態にある。常に「あるべき自分」と自身が考える「本当の自分」との間を言ったり来たりしていながら、決してどちらとも完全に同一化することがないのである。ゲシュタルト・セラピーでは、クライエントは一度に一つずつ、どちらかの「自分」に集中するように求められる。どちらの役割から始めるにせよ、クライエントはすぐにもう一方の「自分」に移ってしまう。ゲシュタルト・セラピストは、単純に、その時そうである自分でいるようにとだけ求めるのである。

 

クライエントは自分を変えてもらいたいと望み、セラピストのもとを訪れる。多くの療法ではこれを正当な目的として受け入れ、様々な方法でクライエントを変容させようと試みる。そしてそれによって、パールズが呼ぶ「トップドッグ/アンダードッグ」の二極化を生み出してしまう。クライエントを助けようとするセラピストは同じ目線という立場から離れて何でも知っている専門家となり、一方のクライエントは無力な人を演じる。セラピストのゴールはあくまでもクライエントと対等な関係を築くことであるにもかかわらず、である。ゲシュタルト・セラピストは、「トップドッグ/アンダードッグ」の両極は既にクライエントの内部に存在して一方が他方を変容させようとしており、セラピストが一方の側の役割に味方することは避けなければならないと考える。彼は、クライエントが自分自身で、一度に一方ずつ、どちらの「自分」をも受け入れるように促すことで、この罠にはまらないようにするのである。

 

これと対照的に、分析的手法をとるセラピストは、夢や自由連想、転移、解釈などの手段を用いて変容が起こせそうな洞察を得る。また、行動療法家は矯正のために報酬や罰を与える。ゲシュタルト・セラピストは、今、クライエントが体験しているもの - それが何であれ - の中にひたる、あるいはそれになることを促すことを大切にしている。プルーストが言うように、「苦しみを癒すには、それを余すところ無く体験しつくすことが欠かせない」と考えるのである。さらに、ゲシュタルト・セラピストは、自然体にある人間は一つの統合された存在であり、複数の相対する断片に分かれてはいないと考える。自然の状態では、自我と外の世界との間の動的な交流を基盤にした変容が常に起きているのである。

 

カーディナーは、フロイトが防衛機制の構造理論を発展させる中で、過程を構造へ(例えば、〝否定する〟ことを〝否定〟へと)変化させたと述べた。ゲシュタルト・セラピストは、その逆が起きる時、すなわち構造が過程へと変化する時に変容が可能だと考える。これが起きる時に、人は外の世界との交流に加わるための扉を開けるのである。

 

距離を置いて断片化された自我が、分断され区分化された複数の役割をとっているとする場合、ゲシュタルト・セラピストは、これらの自我の間のコミュニケーションを促し、時には実際に会話をするよう求めるのである。もしクライエントがこれに反対したり拒否反応を示す場合には、単純に、反対あるいは拒否している自分になるよう求める。経験的に言うと、クライエントが阻害された断片と同一化すると、統合が起きる。つまり、ありのままの自分にひたりきることによって、人は他の何かになることができるということである。

 

セラピスト自身は、変容を求めず単に彼自身でいようとしている人である。そのセラピストを、クライエントが自分の枠組みで見た人物像、例えば救助者やトップドッグなどにあてはめて見ようとすれば、両者の間に葛藤を生む。親密な状態を保ちながらもなお、どちらともが彼自身でいられる時に着地点に到達する。セラピスト自身もまた、他者と共にいながら彼自身であろうとすることで変容していく。こうした相互作用は、セラピストが最も大きく変容する時にこそ最大の効果を生む可能性につながる。それは、セラピストが変容を受け入れる時に、クライエントに対して最大の影響力を持つからである。

 

過去50年の間に、何によってこの変容の理論がパールズの仕事の基盤となり、受容され、現在に通用する価値のあるものにさせたのだろうか。パールズの仮説は変化していない。社会が変化したのである。人類史上初めて、人はある既存の秩序に自分自身を適応させることが必要なのではなく、むしろ刻々と変化する秩序に適応しなければならない立場にいると気づいたのである。つまり、人類史上初めて、社会的・文化的に大きな変化が起きるのに要する時間より、人間の寿命の方が長くなっているのである。さらに言うと、その変化の早さは加速する一方である。

 

過去の出来事や個人の歴史に目を向ける心理療法では、世界の秩序は不変であると見られていたために、トラウマとなった個人的な出来事(大概は幼児期あるいは幼少期に起きたもの)をめぐる問題を一度解決してしまえば、そのクライエントはいつでも世界と上手くやって行く準備ができるとの仮定に立っている。ところが、今日では問題が、変化する社会との関係の中に自分が立っていることに対する認識になってきているのである。多元的・多面的で、変化を続ける社会システムに直面し、各個人は自分自身の方法で安定を見出さざるを得ない。人は自分を導くために、自分自身の中心を安定させる装置を保持しながらも時間と共に動的かつ柔軟に変容していくという手法をとらなければならない。もはや時代遅れのイデオロギーを掲げてそれをすることはできず、明言する・しないは別として変化の理論に沿ってそうするしかないのである。セラピーは、健全で固定した人格を形成するというより、個人が安定を保ちながら時間と共に動いていけるようになることを目指すことになる。

 

現代社会のニーズとパールズの変容の理論が一致する方向への社会的変化に加え、パールズ自身がその頑固さとありのままの自分でいつづけることを志したおかげで、彼が社会を必要とするタイミングで社会が彼を必要とするようになった。パールズはありのままの自分でいなければならなかったにも関わらず、あるいはそうだったからこそ、社会と対立する立場にいた。彼もまた人生の時間の経過と共に、精神医学の分野における多くの専門家グループと統合されていったのだ。効果的なセラピーを通じて個人がバラバラであった自身の断片と統合されていくことができるのと同様である。

 

私たちの目の前に展開する最も深刻な問題が、独自性に彩られた個人を支える社会の発展であるということが明らかになるにつれ、精神医学で問題とされている分野は今や個人の領域を越えて広がっている。ここに概要を述べたと同様の変容の理論は社会システムにも適用できると私は信じる。すなわち、社会システムの中の秩序の変化は統合と全体性を指向していること、そして組織が、その内側と外側両方の、変化する動的な均衡状態と一緒にたゆまず変化できるようにするために、社会的変化の原動力は、組織と共に、そして組織の内側でその大切な機能を発揮しなければならないのだと、私は信じるのである。そうなるには、個人におけるアイデンティティーの確立と似た経過で、内側と外側に存在するバラバラになっている断片をシステムが意識すること - そうすることでそれらを主要な機能活動に呼び込めるように - が求められる。まずはシステム内で、無視された断片の存在に気づく。次に、この断片を、機能上のニーズによって正当に生み出された副産物であるとして受け入れる。そして、はっきりかつゆっくりと動きを与え、存在する力として機能するパワーを与えるのである。その結果、他のサブシステムとのコミュニケーションが生まれ、システム全体の統合された協調的な発展を促進するのである。

 

急激なペースで加速する変化に伴って、社会変化の秩序だった方法が見出されることは人類の存続にとって非常に重要である。ここに提起された変容理論は心理療法に根ざしている。それは一対一の治療的な関係の結果として開発された。しかし、同じ原理が社会の変化にも当てはまり、個人における変化の過程はまさに社会における変化の過程の縮図に他ならないと提言する。種々異なる統合されていない対立する要素は、個人に対してと同じく、社会にとって重大な脅威を呈する。高齢者、若年者、富裕層、貧困層、有色人種、白色人種、高学歴者、労働者等のように、年代的、地理的あるいは社会的相違などにより他と分離する区分化は人類の存続に対する脅威である。我々は、これら区分化された断片を、大システムに参画する、一つひとつは統合された同格なシステムとして、相互に関連づける方法を見出さなければならない。

 

ここに提案された社会的変容の逆説的な理論は、ゲシュタルト・セラピーにおいてパールズが発展させた手法を基にしている。筆者の判断によれば、これは共同社会の組織やその発展、その他民主主義の枠組みに沿う変化の過程に適用できるものである

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